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第4話 ブリスベンの歴史(最初の入植からクイーンズランド州誕生まで)

Brisbane は、人口863,769人、周辺まで含めると160万人の人口を擁するクイーンズランド州の州都である。
その生い立ちは、19世紀初頭の流刑植民地の設営にまでさかのぼる。
最初の入植からクイーンズランドが州として独立し、ブリスベン市が誕生するまでを、物語風に綴ってみた。

最初の設営
「罪人達はどこか他のところに送ってしまえ!」
New South Wales の自由移民達は、口々にこう要求した。
知事ブリズベン卿 Sir Thomas Macdougall Brisbane は、新しい流刑移民(彼らは 'worst kind of felons' と呼ばれていた。)を送る適切な場所を見つけるため、シドニーの北部に調査団を派遣する。
長距離輸送は船で行なわれていたため、よい停泊地のあることが求められ、それも大きな川に近いサイトが理想だった。
John Oxley
John Oxley
1823年、Mermaid 号で Moreton Bay へ向かったジョン・オクスレー中尉 Lieutenant John Oxley Point Skirmish に近づいた時、多くの原住民が興奮して走りよって来るのを見つける。なんと、そのリーダーは白人だった。彼は Thomas Pamphlett、船が難破して7ヶ月間も原住民と一緒に住んでいたのだった。
Pamphlett は、歩いて2日間行けば大きな川があるという。
「それが私の探していた川なのでは?」
Oxley Pamphlett を同行させ、4日分の食料を用意してボートでこの陸水ルートを探索する。それは Oxley が思っていたよりいいところだった。大きなさまざまな種類のユーカリの木や草原があった。
彼らは約80km進んだところで川に到達する。Oxley は、広々とした草原と真水の存在を確認して大いに喜び、この川を知事の名にちなんで Brisbane River と名付け、その土地もブリズベンと呼ばれるようになった。
翌年、彼は Redcliffe の近く Humpybong に最初の植民地を設営する。
この Moreton Bay 植民地は、後にブリスベン川を上って現在のブリスベンの地(今の Queen Street William Street の角の辺り)に本拠を移す。

囚人達の時代
Moreton Bay あるいは Brisbane 植民地は、非常に急場しのぎでスタートしたものだったが、翌年の1825年末までには、囚人と役人を含む約100人の男女が住むようになる。
しかし、当時そこにあったのは、軍隊の売店、兵士と囚人のための少数のテントとバラック、木こり小屋、レンガを焼く窯、鍛冶屋の炉くらいなものだった。
司令官ローガン Captain Patrick Logan (1825-1829) は非常に厳しく無慈悲な人物との評判が高く、この流刑植民地は重罪人を送り込む最悪の場所と言われていた。しかし、彼はまた非常に有能な人物でもあり、ブリズベンの町は彼のリーダーシップの下で速いスピードで発展する。
Logan はブリズベン川上流を調査していたとき何者かによって殺害される。ある人達は原住民を非難したが、囚人が犯人だろうとする人達も大勢いた。
囚人達の時代には、自由な開拓者は50マイル以内への入植を許可されていなかったが、1837年、Andrew Petrie が町の建物を監督するために政府に指名されてブリズベンに到着し、最初の自由入植者となった。
1842年2月、Moreton Bay を「流刑」植民地ではなく自由植民地とする旨の宣言が NSW 政府新聞に掲載された。

自由植民地
ブリズベンの町はゆっくり成長する。1844年には、人口はまだ540人であり、しっかりした建物や住宅はほとんどなかった。
条件は悪かった。食物は、干ばつの時には乏しく、雨が降れば荷馬車は泥に沈みいばらの道 bush track は道路として用をなさない。攻撃的な原住民達が待ち伏せしているため、町を離れることは危険だった。
人々は孤立感を味わっていた。

新しい州知事グリップス卿 Sir George Gipps は、ブリスベン植民地が大きな可能性があると信じていた。
長老教会の牧師 Dr John Dunmore Lang の立てた移住計画に従い、630人の移民が1848年から49年にかけて3隻の船 Fortitude, Chaseley and Lima で到着する。彼らは Fortitude Valley に入植し 'Langites' と呼ばれた。
人口は、North Brisbane、South Brisbane、Kangaroo Point および Ipswich の4つの拠点で、1851年までに8375人にまで増加した。
しかしながら、植民地はいまだ NSW 政府の支配下にあり、遠隔地のため行政管理は行き届かなかった。
1853年、海軍将校 Captain J.C. Wickham が政府駐在官に任命される。

新しい州の誕生
1859年12月10日、クィーンズランド州の誕生がアデレード・ハウスのバルコニーで宣言され、 ジョージ・ボウエン卿 Sir George Bowen が初代の州知事として着任した。
ブリズベンは今や人口7000人の町に成長していたが、それは中心のない町だった。長い道によって囲まれた中に大きなオープン・スペースがあった。
政府は2つの英国の銀行から金を借り、建物の建設プログラムを開始する。不運にも、これらの銀行は倒産し、建築工事も中断を余儀なくされ、賃金未払いの労働者達が通りで暴動を起こした。
1866年9月、職を失った250人の鉄道工事の労働者が、政府にことの重大さを訴えるため Ipswich から州議事堂に向かってデモ行進する。彼らが議事堂に到着した時、その数は125人まで減っていたが、これは平和なデモだった。しかし、数日後、怒った失業中の移民が政府経営の店に石を投げつけるという暴力事件も発生した。

ブリスベン・ブーム
Queen Street
19世紀末の Queen Street
未舗装の道路には、馬車が走っている。
1870年代および1880年代には、オーストラリアの他のどの地域よりも多くの人々がクィーンズランドにやってきた。
1871年38,226人だった人口は、1891年には104,276人にまで跳ね上がり、ブリズベンはブームに沸く。
その富は、金、農業、そして造船業のような地域産業から生まれ、電気、公共交通機関、上下水道、医療施設などが整備されていった。
1888年までには、大通り Queen Street 沿いに囚人によって建てられていた仮設の建物は、地域経済の力強い成長を反映した大きなよくデザインされた建物に置きかえられた。
George Street に建てられた Parliament House Queensland Club の建築様式は、1880年代の楽天主義を見事に反映していた。

ブリスベン川の洪水
Victoria Bridge after flood
洪水の後の Victoria Bridge
まだ木造だった橋の手前は、流れてきた木材が堆積されている。
ブリスベン川は何度もの洪水の歴史を持っている。しかし、1893年に襲った洪水は入植以来最大の大洪水で、今まで冠水を免れていた地域をも水浸しにし、すべてのものを流し去ってしまった。
ほとんどの家屋は川に流され、Victoria Bridge にぶつかってバラバラに壊れ、破片の山となった。被災者は着の身着のままで高い場所に避難し、身を寄せ合ってボートの助けを待った。
この洪水で、今の City のエリアの低地にあったほとんどの木造建築物は修復不可能なほどに破壊されてしまったといわれている。
さらに数週間後に襲った洪水では、ブリスベン川に係留されていた3隻の船が流され、Botanic Garden に乗り上げてしまう。幸い、この船は2週間後にまたやってきた洪水で、奇跡的に川に戻された。
11人が溺死し、190人が負傷するという大災害だった。

1901年、6つの州がオーストアラリア連邦の発足を宣言、翌1902年には、ブリスベン市の発足が宣言された。

ブリスベン歴史年表
1823
1824
1825
1842
1859
1893
1901
1902
1920
1924
1930
1932
1939
1940
1941
1942
1969
1986
1988
1996

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